2018.3.2朝日新聞の朝刊で、東京メトロポリタン(MX)テレビ「ニュース女子」の打ち切りについての記事でコメントを載せていただいています。この問題については、BPOの放送倫理検証委員会が的確な意見書を出しており、そこでも述べられているように、 1) 十分な取材がなされておらず、間違いにあふれていること 2)偏見や思い込みに基づく表現が数々用いられていること、そしてなにより3)持ち込み番組における考査の不十分さなどから、放送倫理的にも人権の視点からも重大な問題があったと考えています。またBPOの調査依頼に制作会社が答えていないことなども誠実な対応とはいえず、放送業界の信頼性を損ないかねないというのが私の考えであり、マスメディアには、フェイクニュースなど玉石混淆な情報があふれかえるネットとは異なる、検証に基づいたニュースや報道を期待する中で、きわめて残念なできごとでした。

その上で、今回、「番組審議会」という、いわばマイナーな組織に触れたコメントになったわけですが、新聞には紙面の制限(放送には時間の制限)があり、なぜあの場面で番組審議会なのか、またそこで述べたかったことが十分に記事になっているわけではありません。早めに断っておきますが、メディアがスペースや時間の限界の範囲で表現することは宿命であり、それは致し方ないことです。(「ニュース女子」が自ら掲げているように「マス・メディアが伝えない」ということをよく言われますが、そこには「紙面」や「放送時間」には制限があるという理由も少しはあると思っています。)そうした制限を踏まえた上で、今回、番組審議会の動きに着目した理由について、少しここで補足をしておこうと考えました。

まず、背景を確認しておくと、ニュース女子の沖縄取材が問題になってすぐ、MXテレビの番組審議会は、

1 視聴者などから指摘を受けた問題点について、指摘を真摯に受け止め、現地で の追加取材を行い、可能な限り多角的な視点で十分な再取材をした番組を制作し、遅くとも2017年上半期中に放送するように努めること。

2 持ち込み番組を含めた社内の考査体制について、更に検討を進めた体制を7月 1日までに再構築するとともに、その一環として、「持ち込み番組に対する考査 ガイドライン」を制定し、周知のうえ、実効性を確保すること。

という2点を社に対して要望しました。その結果として、MXは、番組審議会の要請を踏まえる形で、9月30日に報道特別番組『沖縄 からのメッセージ〜基地・ウチナンチュの想い〜』を放送し、基地問題の背景にある沖縄県の歴史をたどり、米軍基地建設に対する抗議活動にかかわる人 たち、基地をやむを得ないものとして容認する人たちなどに対して多角的な視点からの番組を放送したようです。当該番組を見た人のどれだけがこの番組も見たかはわかりませんし、放送直後の局側の対応には不満もありますが、審議会側として、放送局に対して一つの対応を提案し、局もそれに応じたかたちと思います。また考査体制の再構築という課題に対しては、編成局に考査部が新設されました。一局の審議会によるこうした働きかけは、これまでほとんど前例がありません。また、後述するように、行政からの指導を避ける意味で、番組審議会が自律的な改善を提案した事例となりました。今回の番組審議会の対応は、後述するような番組審議会の立ち位置の曖昧さに対し、悩み多きこの制度のモデルを指し示した事例のように感じられます。

そもそも番組審議会(正式には放送番組審議機関)とは、聞き慣れない組織かもしれませんが、放送法第6条で各放送局に設置が求められている機関で、局によって選定された委員(第7条「学識経験を有する」)が、そこで「放送番組の適正」を図るために審議に関わり、放送事業者(放送局)に対して意見を述べることができる、とされています。一般的には局側が提示した番組を事前に視聴し、その番組について会議の場で意見を述べていきます。そうして出された意見に対し、局側はそれを真摯に受け止め、場合によっては対応策を考えなければならないとされています。

歴史を遡ると、195o年代、NHKは、例えば風刺番組やその中立性が国会でたびたび攻撃されてきましたが、局側は、専門家による審議会を自主的に開催して意見を聞いているので問題ないとして、番組審議会を自らの「後ろ盾」として掲げてきました。それが制度として取り入れられたのには、当時逓信大臣であった田中角栄が関与しています。商業放送が誕生し、増えていくなかで、あまりにも放送が低レベルだとして市民の批判に晒されると、その後も放送免許を大量に付与する方針だった彼は、多くの局をいかに規制監督するかにあたり、NHKが有していたような番組審議会の各局義務化を提案したのでした。ちなみに日本には、イギリス(OFCOM,)やアメリカ(FCC) などのように、政府から独立した放送監督機関がなく(正式にはGHQによって設立されたものの、主権回復後即廃止)、放送は直接総務省の監督下に置かれています。放送番組審議会は,そうした危うさのもとで、放送における政治/行政介入をできるだけ避け、表現の自由を守り、放送の自律を掲げたい放送局側と、限られた公共の電波を使う限り、また自らへの批判を避けるためにも何らかの形で規律を求めたい政府や行政、そして戦前戦中の言論統制から直接的な規制には抵抗を持つ市民たちの、いわば妥協の産物として法制化されたと言えるでしょう。メディア法制が専門の曽我部真裕(2012)氏は、番組編集準則とともに日本型の「規律された自主規制」をになう主要な仕組みとして番組審議会を位置付けています。法制化から60年。幾度かの改訂を経て、今では、各地にある小さなコミュニティーFMなどにも番組審議会は設置が義務付けられています。

番組審議会について考えるにあたり、MXテレビを例に、ちょっと審議会サイトを覗いてみましょう。審議会の概要は公開が義務付けられているので、今ではほとんどの局が自局のウェブサイトや番組でその概要を公開していますが、局によって審議概要の長さや様式はまちまちです。(ちなみにMXの公開議事録は短い部類。)自分が普段見ている番組が、委員にどのように評価されているのかを確認し、意見の多様性を確認するのはなかなか面白い作業です。局や委員によっては、専門家の視点から、カメラワークや制作プロセス、演出などについて触れているので、メディア表現やビジネスについて勉強にもなりますし、テレビ批評という視点からも参考になります。また、あまりに高く評価されている番組は一度見て見たくなるかもしれません。しかし残念ながら、ほとんどの局で、多くの人が気づけないような隠れた場所に審議会の記録は公開されています。

ちなみに、議事録の公開をめぐっては賛否があります。広く議論の様子が知られることは、社会全体の利益として必要であるという意見とともに、公開という正当性を持つ行為が、一方で、権力からの監視につながったり、過度に他罰的な目に晒されることで、行きすぎた自主規制をもたらしかねないという指摘(桂 2002など)もなされています(ゆえに局ごとに差もあります)。実際、世論の放送批判を背景に、法改正のたびに番組審議会に関しての規制や要求が強まっており、議事録の提出もその一環として求められるようになりました。

番組審議会という制度そのものに対しても、疑問や批判が少なからず寄せられてきました。まず、委員や審議番組について、局の側が選定可能であるため、局にとって都合のいい人選や番組審議が可能であるという恣意性が問題視されています。実際、人選はきわめて重要ですが(逆に良くも悪くも自律を損ねる可能性すらあり、そのことに関する自覚もまた必要だと思われます)、番組審議会制度の知名度の低さもあって、ほとんど注目されることはありません。また審議対象番組についても、ドキュメンタリーや情報バラエティーなどが比較的多く、問題になりそうな番組が審議されているケースは決して多くありません(小川 2017)。担当者からは、「学識経験者にバカな番組を見せるわけにはいかないが、それが視聴者受けするのだから仕方がない」という意見や、「総務省に議事録を提出する以上、批判が多ければ注目されてしまうので、無難な番組選びにならざるを得ない」などという意見も聞きますが、本来は、危うい番組こそ審議会にかけ、放送倫理と表現の自由を検討しながら改善案を考えていくことが自律の第一歩のように思えます。(IBC岩手放送では、(おそらく「危うい番組」との意識なしに選んだ)審査対象番組がステルスマーケティングではないかとして番組審議会で多くの委員から指摘されたのに、無視し続けたとして、BPOで討議され、ニュースになったケースもありました。この事例も、BPOに意見が届く前に、局の番組審議会で適切な対応がなされていればと思われます。)

審議委員の立場からも困難は存在します。放送番組に対して、外部の視点からの厳しい批判も求められつつ、局の自律や番組の向上に貢献しなければならないという内部の視点も持ち合わせねばなりません。その塩梅やポジションは一見わかりにくいかもしれません。平たく言えば、番組審議会で求められているのは、放送局が表現の自由を適切に行使することができるように、時に厳しい意見や要望を発し続けることだといえます。その点、今回のMXの番組審議会の対応は、放送局としての自由を守り、外部からの介入を避けるために、起こった間違いに対して厳しい対策を要求するという、いわば愛情ゆえの鞭という番組審議会の立ち位置をわかりやすく示した行為といえます。

2016年に私が行った調査では、番組の質的向上という目的は担当者に共有されていても、「放送の自律」について、審議委員はもちろん、局側の担当者もそれほど強く意識してはいないように見受けられます(小川 2018)。上述のように、審議会が制度としてもろもろジレンマを抱えていることは一定、理解できます。しかし、それでも放送法に明記された正統的な「自主」規制の仕組みなのであり、政府による放送への介入や放送の自律、ネットをはじめとするヘイトスピーチが問われるこんにち、改めて、その活用のアイディアを積極的に考えていく時期に来ているのではないでしょうか。トラブル解決をすべてBPOに一任するのではなく、「適正な番組とは何か」「放送の自律とは」という、簡単には答えを導けない問いについて、委員と局とが適度な緊張の中でともに考え続けることが、いま、求められているように思われます。

 

余談:ちなみにMXに関しては、以前にこうした事件もありました。

小玉美意子(2008)「MXテレビ番審委員辞任劇の真相」GALAC, 2008.5. pp.22-23.

 

参考文献)

千葉雄次郎(1960)「放送法における自主規制」『新聞学評論』(10)

桂敬一(2002)「番組審議会のあり方問う」月刊民放 2002.8.pp30-33.

鈴木秀美・山田健太・砂川浩慶(2009)『放送法を読みとく』商事法務.

曽我部真裕(2012)「放送番組規律の「日本モデル」の形成と展開」曽我部真裕・赤坂幸一編『憲法改革の理念と展開(下巻)』p.372-403.

小川明子(2017) 「番組審議委員会における審議概要の内容分析ー在京民放テレビ6局の公開データ(2012-2016)を例に 」 メディアと社会9号  p.1-18.

小川明子(2018)「地上波民間放送局における番組審議会の現状と課題 −審議委員の構成と運営実態に着目して」マス・コミュニケーション研究  p.67-85.