さほど水俣に強い関心があったわけでもなかったのだが、原一男監督の『水俣曼荼羅』についてラジオで話す機会があり、さらに所属している研究チーム(関西大学経済・政治研究所 エキシビションとツーリズム研究会)の一員として、水俣を訪れる研究会に参加する機会に恵まれた。小学校の頃、公害の項で水俣病について学んでから、その存在や恐ろしさは知っていたものの、現在の様子については全く知らない。というか、きっと解決しているのだろう、と楽観的に考えようとしていたのだと思う。せっかくの機会なので、水俣(病)とメディアについて、メモを残しておきたい。

水俣病とは

水俣病は新日本窒素肥料株式会社(チッソ)が流した工場廃液に含まれるメチル水銀化合物などが魚に蓄積され、その魚を食べたことで大脳皮質など神経細胞に障害が起こる病気である。メチル水銀は、プラスチック可塑剤として必要なアセトアルデヒドを作る過程で副生され、これがタンパク質と結びつきやすくなることで大幅に有毒性が増す。妊娠中の母親がメチル水銀に汚染された魚を食べると胎盤を経由して、胎児がメチル水銀中毒となり、脳性小児麻痺と似た障害を持って生まれることもある。遺伝はしない。

1950年代ごろから魚や猫が死ぬなど原因不明の現象が現れ、1956年には、突然、子どもが話したり歩いたりできなくなって入院する事例が起きはじめた。その後症例は大人にも及び、まともに歩けなくなったり、喋れなくなったり、叫び声をあげたり、痙攣を起こしたりして、発病から1ヶ月余りで死亡する重篤事例が報告されるようになった。また相当数の住民の間に、感覚麻痺や視野狭窄、聴覚異常、手足が動かしづらくなるなどの症状が現れた。流産や幼児の死亡など、家族に複数の死者が出るケースも少なくなかった。原因がわからない病気として恐れられ、伝染するのではないかといった不安から、患者が差別されることも少なくなかった。その後長いこと汚染排水によるものとわからないまま、あるいはわかったのちも、適切な判断や指示や措置がなされないまま同様の患者の発生が相次いだ。

チッソ側はある程度原因を特定していたものの迅速には対処せず、また原因や症状の究明には学界や行政のいざこざや怠慢もあって時間がかかり、それに伴って認定も遅れた。さらに行政は賠償責任を小さくするため、認定基準を引き上げ、認定患者の規模を小さく見積もるようになった。

水俣曼荼羅でも描かれているように、水俣病患者の症状も程度も想像以上に多様だ。手足や顔などに大きく麻痺が残る人や、言語聴覚障害や視野狭窄、あるいは手足や唇の感覚の鈍さ、震え、慢性的な痛みを訴える人もいる。「手足や唇の感覚が鈍い」と聞くだけだと、大したことがない気もしてしまうが、例えば料理人で、ずっと味覚が回復しないのだとしたら不便きわまりないし、漁師でバランスが取れなかったり、獲物のあたりに気付けなかったりするのは致命的だ。またその多くが主観的な訴えに頼るところも多いために、他者には理解されづらく、金目当てのニセ患者なのではないかと侮辱されたりもした 。また、胎児性患者の中には、歩けるようになっていたのに、50歳を過ぎたあたりで突然歩けなくなってしまう症状が出ることも多いという。いつ発症、あるいは重症化するかわからない不安を抱えて生きていくことも辛いだろうと想像できる。こうした、症状があっても認められない「未認定患者」たちは戦い続け、あるいは認定されて賠償金を得たとしても、根本的な治療方法がいまだにないため、リハビリなどをして機能をできるだけ維持するしかない。水俣病は終わっていない。

水俣病とメディア

水俣病については、多くの人にとっては教科書の記述のイメージが大きいのではないだろうか。私も、教科書でうつろな目をした胎児性患者の写真を見たように記憶している。あるいはテレビで、自分の意思で思うように動けなくなった患者たちの様子や、狂ったように転がり回る猫を見たような気がする。思い返せば、教科書に限らず、目に触れるメディアコンテンツの多くは「奇病」と感じさせる描き方をしていた。実際、その選択には是非もあるだろうが、メディアは、公害で奪い取られた生や穏やかな日常を表現する上で、最もショッキングな画像や映像を選択しがちである。

一方で、水俣病をめぐっては、これまでにも数々のメディア作品が世に送り出されてきた。土本典昭が残したドキュメンタリー群や地元テレビ局のドキュメンタリー。あるいは、桑原史成や、ハリウッド映画『Minamata』のモデルともなったユージン・スミスが 、いずれも住民と寝食を共にしながら、人びと、運動、暮らしを記録し、発信し続けた。文学では環境活動家ともいえる石牟礼道子が『苦海浄土 わが水俣病』などで、水俣病の悲劇を、そしてそれでも生きていく人間の強さを描いた。6時間という長尺の『水俣曼荼羅』も、本気で解決を図ろうとしない行政と、利害を超えて不条理を社会に問おうとする人びとの長い長い戦いを描いている。こうした作品群からすれば、水俣は、近代を問いなおす名作を生み出した世界的な土地とも言える。しかし注意しておきたいのは、これらの作品が、水俣病や公害、社会の不条理に自ら目を向けようとする人びとから絶賛される名作であっても、日常生活を穏やかに過ごしたい地元の人びとにとってはわざわざ目にしたくない作品かもしれないということだ。

語られない水俣病

実際、水俣でこうしたメディア作品が上映されることはほとんどない。もちろん、映画館がないという問題もあるのだが、そのことを差し引いても、水俣病について住民の間で語られることすらいまだにあまりないという。熊本放送で水俣病のドキュメンタリーを撮り続けてきた村上雅通氏は、研究班のインタビューで、「水俣では水俣病なんて言いません。あれ、とか、これ、とか、会話の中で必要になった時だけそうやって表現するんです」と非常にわかりやすく状況を説明してくださった。誰もが親族や友人に水俣病で調子が良くない人がいるような現状だというが、水俣病について面と向かって議論したり、意見を述べたりということは、一般的にはめったにないというのだ。

なぜ語られないのか。

いくつか理由はあるだろう。まず、水俣がチッソの企業城下町であり続けているという背景があるだろう。チッソは設立当初から高度な技術を有する総合化学企業として、戦前には東京大学で化学を専攻した優秀な人材が赴任する最先端の企業であり、1920年代には植民地で大成功を収め、戦後には日本の高度経済成長を支えた企業である。したがって、住民にはこうした花形企業が地元にあることを少なからず誇りに思う側面があるという。被害患者であってもチッソの工場労働者でチッソの職員であることを誇りに思うことも十分あり得たし、知り合いや近所にチッソ関係者がいるかもしれない。チッソという権力を責めることは、小さい町に暮らす住民たちにとって、隣り合って生活をしている人びとを暗に責めることになりうるのであり、また、小さな町の主幹産業が撤退することで自分の事業が衰退するのではないかという危惧と常に隣り合わせなのだ。東京のメディアがチッソを批判するのとは異なる生活世界がここにはある。

2点目に、一方で、散々地域内で対立が起きてきた経緯があるだろう。公害をめぐる補償・救済制度の変遷と問題点に関しては多くの蓄積があるので、他のサイトや書籍を参照してほしい。ニュースなどで伝えられる、患者とチッソ、あるいは行政という大きな対立の水面下で見えづらいが、個別住民たちの間には、それとはまた別の次元で、患者認定、そしてそれに伴う補償について、ひがみやっかみを含めた傷つけ合いがどうしても起きてしまう。

ガイドツアーを依頼した相思社の水俣病歴史考証館で、私が最も目を引かれたのは、補償を受けた被害者に対しての誹謗中傷のハガキだった。「金欲しさ」、「ニセ患者」、「ゴキブリ」など、ネット上で見たような誹謗中傷が昭和のハガキに書き付けられている。住所などが書かれているところからすれば案外地元の知り合いかもしれない。匿名で寄せられる誹謗中傷が、認定患者の日常生活をさらに蝕んでいくこともまた容易に想像可能だ。地域の中では、できるだけ対立を生むような内容には触れない方が無難に日常を過ごすことができるのだろう。ネット時代以前から、「声を上げる」ことに難しさが伴ったのだということを示す資料だった。

3点目に、水俣病という病名そのものをこれ以上目立たせたくないという心情だ。例えば、水俣という地名を冠した病名は、域外から、水俣出身者や産物への偏見や忌避のまなざしを向けることになりかねない。したがって、世界的な通称でもあるメチル水銀中毒という病名を採用すべきという意見が一方にある。しかしその一方で、病名変更をすれば、水俣病という名が消えることになり、この地で起きたことや補償責任がなくなったかのように扱われることを危惧する主張もある。残念なことに、強いインパクトを持って、水俣病やその被害が人びとに知られれば知られるほど、風評被害や偏見が水俣に暮らす人びとにはね返ってきてしまうというジレンマが顕著にある。おそらくこれは公害全般に言えることだろう。

象徴的だったのが、チッソ本社のすぐ目の前にあるJR水俣駅だ。最近、補助金でリニューアルされたというこぎれいな駅舎には、水俣を紹介するコーナーがあるのだが、そこには石牟礼道子もジョニー・デップも出てこない。訪問した際には、水俣がロケ地となった、正直あまり聞いたことがない映画と「みなまた」とひらがな表記された観光パンフレットが並べられていた。実際、水俣の海や集落はとても美しい。だからこそ汚染物質が溜まり続けた訳だが、内海ゆえに鏡のように穏やかだ。負のイメージが塗布された地域は、新たなポジティブな地域イメージを作り上げることで、負のイメージが消えていくのを待つ。都合が悪い真実を掘り返し、発信し、問うことが、結果的に自分たちへの被害をもたらすかもしれないことを、住民たちは無意識のうちに感じ、静かに嵐が通り過ぎるのを待ち続けているのかもしれない。

結びにかえて

こうした状況には既視感がある。60年前の出来事が、311後の社会でも繰り返されているように思えてならない。おそらく患者たちが連帯して声を上げ、全国の人びとに不条理を訴え、世論を動かして政策や裁判において自分たちの権利を勝ち取っていくというのが民主主義的に正しいプロセスだろう。しかしそれは、現実的にはレベルの差こそあれ、どこでも教科書通りに進んではいない。南米で識字運動を展開したP.フレイレは、農民たちの間に、自分たちが語ることは何もなく、語る権利もないと考える「沈黙の文化」が存在していると指摘した。今回の水俣訪問は、その沈黙の文化が、地域社会の中で、あるいはメディア・コミュニケーションにおいて、どのようなプロセスで生成されていくのかを改めて考えさせられる機会となった。