吉見俊哉『博覧会の政治学』が明らかにしたように、国際万国博覧会(万博)は、技術や消費文化の広告装置、国威発揚の大衆向けメディアとしてメディア研究の視点から分析されてきた。2000年代に入り、メディア状況が大きく変化する中で、送り手(企業、国家や行政)ー受け手(来訪者)の関係性も変化し、2005年に愛知県で行われた愛・地球博では、受け手の側から新たな「読み解き方」「楽しみ方」が発見されていく万博となった。ちなみに私も編者となって関わった『私の愛した地球博(2006)』は、今読むととても懐かしく、またなかなか面白い。

さて、そうした万博研究に対し、「花博」と呼ばれる国際園芸博覧会についての研究は世界的に見てもきわめて少ない。園芸や花卉、建築やランドスケープ、広報・広告、メディア論など、視点が多岐にわたるために、分析の視点が定めにくいことが一つの理由だろう。しかし少なくとも日本では、1990年の大阪・国際花と緑の博覧会が大成功を収めたのをはじめ、淡路島や浜松などで行われたA2と呼ばれる小規模花博も多くの入場者を集めており、毎年開かれる緑化フェアなどを含めても 、人びとの花博に対する関心は高い。2027年には横浜市で、A1という、大阪クラスの大規模な国際園芸博覧会が開かれることになっている。

愛知万博で課題提起されたように、開発型気質が抜けず、環境負荷が批判されることの多い万博と異なり、園芸博はより環境に配慮した博覧会としての役割を意識しているため、今後、国や地域による誘致もしやすいのではないか。そして花博、あるいは各パビリオンの発信するメッセージは、持続可能性が求められる中でどのように変化するのか、また来場者はどのようにそのメッセージを読み解き、楽しむのだろうか。こうした視点から、花博をめぐる研究を数年前から始めた。昨年は、手始めに、国際的に評価の高い英国の庭とチェルシー・フラワー・ショーの歴史を「見せ物(exhibition)」の視点から分析した。

こうした流れで、2022年9月、10年に1度のヨーロッパの花博(Floriade)と国際園芸博覧会とが一度に開かれる、オランダ アルメーレ2022国際園芸博覧会を訪れた。実は3年前にも開発中の場所を見に行ったのだが、当時は土しかなかった。干拓地で国土を拓いてきたオランダらしく、アムステルダム近郊の干拓地を緑化し、博覧会開催後には住宅街にするという計画で 、環境負荷をできるだけ抑えた開発が目指されている。もちろん、干拓という行為自体、あるいはここでの緑化の手法自体、持続可能かどうか検討される必要があるのだろうが、テーマとして「緑豊かな都市の成長」が打ち出されており、オランダの都市開発のあり方や理想そのものを、博覧会を通して見せていくということらしい。ちなみに会場内の大きな建物はすべて、現在、大学や高齢者施設などとして既に使われてしまっており、内部の展示はない。

ゲーム方式で個人がポイントを集めながら環境について考えるドイツ館の展示。

そんなわけで今回のアルメーレ花博だが、率直に言って、大阪や淡路の花博をイメージして観光目的で出かけたら落胆するかもしれない。花畑はとても小さく、パビリオンも小規模。たっぷり花を楽しめるのは日本館くらいかもしれない。聞けば、期間中、生花を咲かせ続けるのはきわめて難しいため、どの国も生花を飾りたがらないという。実際、植物は温度や湿度に大きく影響されるため、環境に適応させるのが難しい上、1週間のみの展示であるチェルシーと異なり、何しろ期間が長い。19世紀の万博でも、日本が持ち込んだ珍しい植物を全て枯らしてしまい、仕方ないので枯れ木だけが展示されたという記述もあった。したがって、ほとんどのパビリオンは、環境負荷を考えた小規模な展示にとどまるか、遠慮なく自国の民芸品などを並べて売るだけとなってしまっていた。毎回テクノロジーを使いながら真面目に持続可能性関連の出展をするドイツ館が最も力を入れていただろうか。北京(2019)では派手な外装とイルミネーションで注目されたカタール(2023開催予定)も今回は小規模だ。ちなみにCovid-19のせいで、来客数は予定を大きく大きく下回ってしまっているという。それも理由の一つかもしれない。あるいは、持続可能な世界的エキシビションと都市開発、という自己矛盾ゆえか。

日本館の外観。茅葺き屋根はやはり美しい。

さて日本館についても紹介しておこう。日本館は、アムステルダムの日本人建築家が建設したという、昔の農家を思い起こさせる茅葺の建物(農林水産省管轄)と日本庭園(国土交通省管轄)で成り立っており、里山をテーマにしている。展示、特に内部は入れ替えもあって定まらないのは仕方ないとしても、屋外において、せっかくの「里山」というSDG’s的に最高のコンセプトがうまく活かしきれていないのが残念という印象を受けた。

コンセプトは悪くないと思うのだが文字フォントを含む見せ方に工夫がほしい。

一つ一つのコーナー、たとえば日本から欧米に持ち出され、そこで改良された数々の植物を紹介する「里帰り植物」などは悪くないのだが、どのあたりが里山を意識しているのか、一見するだけでは理解しづらかった。身近な自然を手入れしながら生活に活かし、管理していくという里山の理念は、小さな文字で説明されるだけで、「体験」できない。建物についても、内部は展示スペースだけで、また日本家屋の建築家から見ると木の組み方などが伝統にしたがっていないという印象を受けるようだ。しかし、遠く離れた地で日本を再現しようとする万博には、百年以上前から「正統性」をめぐって常に批判が起こってきたので仕方ないのだろう。逆に言えばそれが100年経ってまだ続いているのはなぜか、という点も気になる。どこの国の展示もそうだが、「園芸」博とはいえ、万博という、最高のパブリック・ディプロマシーの舞台であるのに、案内方法を含めて、十分機会を生かしきれていない印象だ。

担当者との対話や体験を楽しむ

ただ、地元の人たちが行っている地産地消の試みについての展示や、自然をめぐる教育活動のエリア、果物や野菜をそのまま収穫して持ち帰ることのできるコーナーなどは面白かった。これらは見た目の驚きを喚起するスペクタクルな万博とはかけ離れているが、人との交流を楽しんだり、マスメディアでは見かけない知や美と出会い、体験する、言うなれば愛知万博の流れ(!)を汲む楽しみ方なのだろう。博覧会協会や国家や企業が押し付けたいようには、人はもう動かないのかもしれない。

熱意の感じられないフランス館

ちなみに花博に花を期待するのは、お門違いの側面もあるのかもしれない。花博は英語で、The World Horticultural Exhibition 、つまり「園芸博」なのであり、花だけが園芸ではない。またその関係者には造園や土木、建築業者が少なからず関わっており、博覧会では彼らの仕事こそが評価される側面もある。実際、観客のソーシャルメディアのレビューでも、英国人は「チェルシーという素晴らしい展示と比べると、がっかりします」というものもあった。日本でも同様に、花が咲き乱れるのを楽しみたいという来訪者の欲望が強いと考えられるが、国際園芸博は必ずしもそうした期待にそのまま応えてくれるわけではなく、持続可能性や生物多様性を人びとに教示する教育的側面も担っている。来訪者は、地元の家族連れかヨーロッパの比較的余裕のある高齢者が多く、こうした学びの側面に対しても比較的関心が高かったように感じられる。

というのは、送り手中心的なコミュニケーションであって、万博というイベントに対する求心力が低下している21世紀。人びとはもうそうしたドミナントな見方をそのまま受け入れて万博を楽しんでいないのかもしれない。実際、私が個人的に面白かったのは、万博で赤紫蘇の葉がカラーリーフとしてたくさん使われていたことだ。園芸に詳しそうな地元の来場者に話を聞いても初めて見たというので、今後、カラーハーブとしての赤紫蘇を世界の園芸シーンで見かけるようになるかもしれない。